I.基礎知識(20点)
次の文章を読んで、1~20の問いに答えなさい。答えは選択肢[A][B][C][D]からもっとも適切なものを1つ選びなさい。
「読む」ということについてなど、だれもあまり考えてみることはしない。しかし、「読む」こと( 1 )真正面から取りあげて考えてみると、本当はなかなか難しいのである。
かつて、ある生徒の答案があまりにも素晴らしく、(思う存分)大きく「グッド」と書いて、賞賛の言葉を書き連ねたことがある。問題文は難解、設問もその文章の思想の根っこを把握するもので、こんな問題のできる生徒がいるといいな、そう考えながら作った問題であった。ほとんどの生徒が見当もつかずにピントの外れた解答をしている中で、その答案は、的確に読み取り、確かな論理で思索し、そして完璧な内容を緊密な文体で表現していた。「グッド」は、そんな答案に( 3 )感嘆の叫びだったのである。
それから五年後、大学院生になっている彼と会う機会があったが、驚くべき( 4 )、彼はそのときのことを鮮明に覚えていて、次のような話をしてくれた。
僕はサッカーのエースストライカー(主力队员)でした。中学でも、高校でも、僕がいなければチームは勝てないと内心思っていました。ある時など、ディフェンダー(守门员)から「おまえはいいなあ、足でボールを蹴っているだけで威張っていられるんだから。おれなんか体で阻止しているのに、ちっとも認めてもらえねえや。」と嫌味を言われたこともありましたが、僕が( 5 )なのは当然のことだと思っていました。ところがある大きな大会への出場権をかけた試合に、監督が僕を後ろに下げたんです。僕はその理由を考えるより先に、( 6 )こんな大事な試合に僕を下がらせるのかと、憤然としたままゲームをやりました。ゲーム( 7 )勝ちました。先生は、僕を下げたこと( 8 )何も言いませんでした。僕の心には、憤りと不満とだれにとも知れない敵意が( 9 )ありました。ところがある時、突然、僕は一体チームの中でどういう存在だったのだろうかという思いが沸い( 10 )のです。僕は一体どういう奴なんだ、僕はどんなふうに皆に思われているのだろう、僕とは一体なんだ。そんなふうに思い悩んでいた時、先生のテストで「グッド」と書い( 11 )のです。
この話を聞きながら、コトンと胸に落ちた( 12 )があった。それは、物が「見える」ためには、逆説的ではあるが、自分がないこと、己の「我」がないこと、かっこ良く言えば、自分が一個のvain(空虚)であることが必要ではないかということである。彼の場合も、自分を高しとする思い上がりを捨てて誠実に自分と向き合う気持ちになっていたからこそ、問題の文章がよく読めたのではないか。おそらく、このときの彼の心は、柔らかく伸びやかな何もない広がりであったはずだ。
( 1 )~( 12 )に入るもっとも適切なものはどれか。
1.[A]に [B]を [C] で [D]へ
2. [A]思わず [B]思う存分 [C]思いのほか [D]思いもよらず
3. [A]面する [B]対する
[C]接する [D]関する
4. [A]ことを [B]ことで [C]ことは [D]ことに
5. [A]スター [B]スキー
[C]スローブ [D]スタート
6. [A]なんか [B]なんて
[C]なんで [D]なんと
7. [A]をも [B]には [C]とは [D]のも
8. [A]に対して [B]に応じて [C]において [D]について
9. [A]きっと [B]やっと [C]ずっと [D]もっと
10. [A]てきた [B]てみた [C]ておいた [D]ていった
11. [A]てあげた [B]てしまった [C]てやった [D]てもらった
12. [A]の [B]わけ [C]こと [D]ところ
13.文中の「考えながら」の「ながら」と同じ使い方のものはどれか。
[A]あの男の子は若いながら、よく気がきいている。
[B]学生でありながら、ブランド品ばかり使っている。
[C]田舎の叔父は貧しいながら、幸せな一生を送った。
[D]車を運転しながら、電話をかけるのは危ないことだ。
14. 文中の「大学院生になっている」の「ている」と同じ使い方のものはどれか。
[A]お母さんは、今台所で料理をしているんですけど······。
[B]もう10時だから、どこのデパートも閉まっていると思う。
[C]ほら、あそこを歩いている人は新しく来た近代文学の先生だよ。
[D]あのTシャツを着いている人は朝から家の前をうろうろしている。
15. 文中の「威張っていられる」の「(ら)れる」と同じ使い方のものはどれか。
[A]わたしは夜型で、そんなに早くは起きられませんよ。
[B]この写真を見ると、小学時代のことが思い出される。
[C]祖母に死なれた彼はすっかり元気を無くしてしまった。
[D]先生は講演した後、すぐ空港に向かって国へ帰られた。
16. 文中の「チームの中で」の「で」と同じ使い方のものはどれか。
[A]北京のような大都会で、住宅問題に悩んでいる若者が多い。
[B]租界だったこの辺りの建物は、石でできているものが多い。
[C]大雨で中止になったサッカーの試合は、次の日に行われた。
[D]東京から新幹線に乗れば、3時間ぐらいで大阪に着きます。
17. 文中の「『見える』ため」の「ため」と同じ使い方のものはどれか。
[A]今年は夏が暑かったため、エアコンがよく売れた。
[B]台風が来るため、空港は閉鎖されることになった。
[C]生活がゆたかになったために、平均寿命が延びている。
[D]留学するために、一生懸命に働いてお金をためている。
18. 文中の「ということ」と同じ使い方のものはどれか。
[A]国道101号線の入口で、交通事故があったということだ。
[B]ボランティア募集の締め切りは来月の末だということだ。
[C]この諺の意味は時間を大切にしなければならないということだ。
[D]山田さんは近く会社を辞めてフランスに留学するということだ。
19. 文中の「把握」の読み方はどれか。
[A]ばあく [B]はあく [C]ばわく [D]はわく
20. 文中の「蹴って」の「蹴」の読み方はどれか。
[A]か [B]さ [C]け [D]き
II.読解(55点)
A. 次の文章の[一][に][三][四]を読んで、21~40の問いに答えなさい。答えは選択肢[A][B][C][D]からもっとも適切なものを1つ選びなさい。(2点X20=40点)
[一]
日本には現在、朝日、毎日、読売という三大組がある。これに、日経、産経を加えて五大組と称することもあるらしい。
新聞というものを、わたしはすでに数十年前からほとんど読まないことにしている。それをひそかな誇りにしている。
なぜ読まないか、話は簡単である。読み比べて、何の区別もないからだ。久しく前から、新聞を作る人たちが自分は言葉のプロであり、文章を書くことによってメシを食う職業人であるという意識を、徹底的に喪失してしまった。売文業者であることを忘れて果てた。事件が起こり、その事件を二足す二は四
という文体で報道するだけならば、それはジャーナリズムとは言えない。ジャーナリズムとは、文章である。もちろん、事実は伝えなければならない。が、その事実を伝えるにも無限の方法があり、発想があることを、みな忘れてしまった。二足す二は四という文章ばかりである。
( ア )、どれを見ても区別のつかない新聞に、区別をつけるのはコラム(专栏)である。いい日本語、面白い文章、楽しい文章、読んでも啓発される文章
そういうもので書かれたコラムがあるかないかが、新聞の生命を決定するとわたしは考える。
大正末期から昭和にかけて、かなり長い間毎日新聞は薄田泣董の「茶話」というコラムを載せていた。当時の毎日新聞はたった一つ、この「茶話」のコラムだけで売れていたんだ。座布団サイズの新聞が、ハガキ大のスぺースのコラムで売れていたのである。が、それは当然のことだったろう。その頃、まだ新聞はその文章によって読まれるという、本来の機能と美徳が生きていた。新聞を作る人の意識の中に文章を売るという意識があったのだと思われる。
これに対抗するため朝日新聞が持ち出してきたのが、杉村楚人冠のコラムである。どちらかというと、わたしは薄田泣董の文章のほうが好きである。いま読み返してみても、なお読むにたえるユーモア、柔らかさ、清新さ、色々なものを含んでいる。こういうコラムというものが、もうなくなってしまった。あのコラムがあるために新聞を読もうという喜びが、ことごとく死に絶えてしまった。もちろん、外部の偉いセンセイたちに頼んでコラムを書いてもらう欄はいくらでもあるし、どの新聞にもある、が、その内容自体が凡庸、陳腐、お粗末······ことごとくこれで、全然面白くない。にもかかわらず、止められないでいる。だれも読まないのに止まられないという点では、死亡広告の記事に似ている。
ニュースそのものは、現代、即刻テレビで報道されてしまう。そして、ロコミというコミュニケーション機関もある。従って、新聞の権利回復はいまこそコラムにかかっているのである。読みたくなるようなコラム、これが新聞なんだ。
21. 文中に「新聞というものを、······している」とあるが、それはなぜか。
[A]新聞の文章を書く人たちは文章で生計を立てる必要がなくなったから
[B]新聞は事実を伝えなければならないという義務を徹底的に忘れたから
[C]新聞の内容はどれもこれも大体同じで変化がほとんど見られないから
[D]新聞は朝日などのいわゆる三大組また五大組に独占されているから
22. 文中の( ア )に入れるものはどれか。
[A]なお [B]さて [C]そのため [D]すなわち
23. 文中の「それ」は何を指すか。
[A]字数の少ないコラムが当時の毎日新聞を支えていたこと
[B]薄田泣董の書いたコラムを長い時間毎日新聞に載せていたこと
[C]美しい日本語で書かれたコラムが新聞の生命を決定していたこと
[D]新聞の本来の機能と美徳が当時の日本社会ではまだ生きていたこと
24. 文中の「新聞の権利回復は······かかっているのである」とあるが、それはなぜか。
[A]現在はどの新聞のコラムの内容もつまらなくて清新さが全くないから
[B]テレビはコラムのような形でニュースを報道することができないから
[C]ニュースを即刻に報道する面において新聞はテレビには勝てないから
[D]コラムから新聞を読む喜びを味わいたい人がいないわけではないから
25. この文章の内容に合っているものはどれか。
[A]現在の新聞をつくる人たちは自分が文章で生きていることを完全に忘れた。
[B]だれも読まない新聞のコラムがいずれ死亡広告の記事に取り替えられよう。
[C]朝日新聞と毎日新聞の競争が現在のような清新なコラムの文章を生み出した。
[D]事実を報道する場合には新聞の文章は作者の発想や意見などを避けるべきだ。
[二]
一人の人が一生のうちに、何人の先生にものを教えてもらうだろう。幼稚園から始まって学校の先生方は言うまでもないが、この頃は学校外にお稽古事をするのが流行で、小さい人がピアノとかバレエとか特別の先生についている。学校を卒業したお勤めの人たちも色々先生をもっている。生花・茶道路組もあるし、手芸組、スポーツ組、実用組の人は薄記・筆記・タイプライターと何でも次々に習得しようというのもある。
主婦はタイプや筆記を習っても、それを生かして働きに出るだけの時間のゆとりがないから、こういう勉強をする人は少ないらしく、スポーツもいまさらテニスは骨が折れるし、
手芸が多いだろうか。
知人に生花・茶道の先生があるが、忙しい中に暇を作っては、書道・日本舞踊と習って歩く。人にものを教える商売は、つつしみがちになるので、気がふけていけない(怀疑是真题打错,気が抜けてはいけない)と言う。先生と呼ばれれば、いつもどこからか多数の生徒に見られている、と覚悟していなければならぬ。「学ぶ」は「まねぶ」であって、真似る意味があるのだから、見られているということは真似られることだとまずはそう思わなくてはならない。真似られて恥をかくようなことはできないから、いつも謹んでいる。すると着物でも何でもつい地味に落ち着いたものを選ぶようになるし、気持ちもなるべく平穏にと心がけるので、いつしか年齢よりふけてしまう。けれどもお弟子さん方は欲張りで、ふけて落ち着いている先生は好きなくせに、ふけ込んで若さを失っている先生なんかは大嫌いなのだそうだ。ふけていて若々しくなくては、生徒たちに人気がないのだそうだ。難しいものだ。
ものを習えば若々しく見えるという。それでその先生たちはせっせと稽古事をして、活気を絶やさないように心がけ、かつ楽しんで生活をしているのである。
授業料を出す出さないにかかわらず、教えてくださいと願う以上は、教えてくれる人は先生である。でも願わないで教えてもらう縁もたくさんある。私にも学校の先生のほかに、幾人かの先生のお世話にもなり、また願わないで教えてもらった師もたくさんある。ふと読んだ本、通り掛かりで見てはっと納得した光景等々、何人の師に逢っているかと思うとき項垂れて感謝する。その中で大きな師が一人いる。
死である。私は十年ほど前に父の死にあったのだが、あの死にあったのでどんなにいくつものことを教えられたか、数えることも何もできないのである。死というのは、人生の最後のところに控えた大先生であると思う。だが、この大先生にあって教えを受けるのは、
頭の悪い、しかもなまけもののみなのだ。死は師である、と私は思っている。
26. 文中の「こういう勉強」の内容はどれか。
[A]ピアノのような芸術的なもの
[B]タイプのような実用的なもの
[C]生け花のような伝統的なもの
[D]テニスのような体力的なもの
27. 文中に「つつしみがちになる」とあるが、それはなぜか。
[A]いつも他人に注目されて模倣されていることをよく知っているから
[B]若くても年齢が上だという印象を学生に与えたいと思っているから
[C]落ち着いた服を着て学生を教えることがすでに常識になっているから
[D]忙しくても書道や日本舞踊など教養となるものの勉強をしているから
28. 文中に「難しいものだ」とあるが、なぜこのように言うか。
[A]学生は授業料も出さずに先生にものを教えてもらうこともしばしばあるから
[B]学生は生け花や茶道の先生に書道などのことを教えてもらうこともあるから
[C]学生は欲張りで気持ちの平穏で落ち着いた実際年齢の若い先生が好きだから
[D]学生はふけて落ち着いているけれども若さを失っていない先生が好きだから
29. 文中の「死は師である」とあるが、なぜこのように言うか。
[A]人間がふけてしまうと、死だけが実際に何かを教えてくれる存在になるから
[B]感謝はしないが、死は本に書かれていないことをたくさん教えてくれたから
[C]頭が悪くてなまけものの人間が、死に直面して初めて勉強するようになるから
[D]願わないことであるが、父の死から考えさせられることがたくさんあったから
30. この文章の内容に合っているものはどれか。
[A]学校を卒業した人たちの先生の中で、実用組の先生がもっとも多い。
[B]スポーツ組の先生は仕事が忙しいので、地味な服がもっとも似合う。
[C]人の一生にあった先生の中で、願わないで教えを頂いた先生もいる。
[D]実際年齢が知られたくないので、若々しく振舞っている先生もいる。
II.読解(55点)
A. 次の文章の[一][に][三][四]を読んで、21~40の問いに答えなさい。答えは選択肢[A][B][C][D]からもっとも適切なものを1つ選びなさい。(2点X20=40点)
[三]
現在はどうだかわからないが、ロシアガソ連(苏联)だったころ、男の人も女の人も、一歩家を出る時は必ず、買い物袋を持っていたという。どうしてかというと、いつ、自分の欲しいものが売りに出されるかわからないからなのだそうだ。
そのソ連では、街を歩いていて行列ができていると、人は必ず、とにかくその行列の一番後ろに並ぶという。何のための行列だかわからなくても、まず並ぶのだそうだ。
その列は、りんごの売り出しのための列かもしれない。牛肉の列かもしれない。トイレットペーパーの列かもしれない。とにかく並んでみて、自分が欲しいものであったならば、例のいつも持ち歩いている買い物袋を引っ張り出して、その品物を買うというわけである。こういう時のために、ソ連の人はいつも買い物袋を持って歩いているのだ。
この買い物袋のことを、ロシア語では「アボシカ」という。そしてこのアボシカの本来の言葉の意味は「もしかしたら······」という意味なのだそうだ。
私はこの話を聞いた時、ふっと自分自身の日常生活を考えた。
もちろん、出掛けるごとに買い物袋を持って行く······などということはしていない。たとえ外で何かを急に買ったとしても、日本では、その品物は袋に入って渡されるから、その必要性もないのである。
確かに便利ではあるけれど、私たちは、こうした行き届いた暮らしの中で、少しずつ、何かを忘れてしまっているような気がする。
人は、今日( ア )を知らずに生きている。まるでソ連の人が家を出る時のように、私たちも一日を生きているのである。
もしかしたら、心が洗われるような音楽に出会うかもしれないし、人生を変えてしまうような本に出会うかもしれない。考え方を改めるような映画に出会うかもしれないし、心の支えとなるような人に出会うかもしれない。涙ぐむような光景に出会うかもしれないし、力強い言葉に出会うかもしれない。
どんなものにぶつかるか、私たちは何も知らずに生きているのである。
果たして私たちは、そんな大切なものに出会った時、それを自分のものにしてしまえるような買い物袋を持っているだろうか。
せっかくいいものに出会うことができても、それを自分の心の中に取り込まない限りは、ただの「いいもの」で終わってしまう。自分の心で感じ、自分の頭で考え、それを自分のものにしなければ、何もならないのである。
品物は、確かに袋に入れて渡してくれる。けれども心が欲する何かは、剥き出しのまま、ポンと私たちの前に落ちるだけである。それを入れる袋は、私たち自身の心の中にしか存在し得ないものだ。誰かが袋をくれるわけでもない、拾ってくれるわけでもない。自分で拾って、自分の袋に入れるしか方法はないのである。
心のどこか片隅に、いつも「アボシカ」を持って生きていたいと思っている。
31. 文中の「この話」とは、どんなにことか。
[A]ソ連の人は、街でできている行列がなんの行列かわからなくてもまず並ぶこと
[B]ソ連人は欲しい物にあったら、いつでも買えるように買い物袋を持ち歩くこと
[C]日本人は、出掛けるごとに買い物袋を持っていくようなことをしていないこと
[D]買い物袋を「アボシカ」というロシア語の意味は、「もしかしたら」であること
32. 文中の「行き届いた暮らし」とは、どのような暮らしか。
[A]必需品を買うために並ぶことを経験したことがないような豊かな暮らし
[B]昔の物不足の生活をきれいに忘れてしまった現在のような豊かな暮らし
[C]出かける時に何かの売出しの列を探さなくてもいいような便利な暮らし
[D]そとでの買物のときも品物は袋に入って渡されるような便利な暮らし
33. 文中の( ア )に入れるものはどれか。
[A]何に出会うか
[B]何が変わるか
[C]何をなすべきか
[D]何が売られるか
34. 文中の「それ」は何を指すか。
[A]私たちの目の前に現れた自分の心が強く求めているもの
[B]ようやく手に入った包装されていない非常に大切なもの
[C]外出先で偶然に発見して購入する前から欲しかったもの
[D]道場で拾えない自分が努力してはじめて入手できるもの
35. この文章で筆者がもっとも言いたいことは何か。
[A]私達は不便な生活を強いられても上手に対応できるような意識を持つべきだ。
[B]私達は誰かが渡してくれたものの中からいいものを発見する目を持つべきだ。
[C]私達は精神的食糧になる何かを自ら取り入れようとする心構えを持つべきだ。
[D]私達は昔のソ連の人びとの困難に負けないような楽観的な精神を持つべきだ。
[四]
医者の前に座る患者は無力である。無力で哀れな存在である。患者の無力感を象徴するかのように、小さな、丸い腰掛けが置かれている。患者はこの上に腰を下ろさねばならない。
( ア )、医者は堂々としている。権威のある、頼もしい存在である。あるいは、そういう存在でなければならない。医療というのは、今もなお、呪術的一面を残しているものだから、医者が無力で哀れな存在であれば、ショーバイつとまらないのである。それかあらぬか、医者はたいてい、肘付きの堂々たるいすに座っている。いすの肘は、医者がこれに、手ないし肘をのせて、堂々と患者に対することを期待している。そもそもいすの肘というものは、医者の役割に対する社会的期待の象徴である。
残念なことに、医者のいすはしばしば、くるくる回る子供っぽさをも兼ね備えている。患者のからだを多方面から観察、診療しているかと思うと、くるりと翻ってつくえに向かい、処方その他のビジネスに立ち向かわねばならない。ビジネスをせねばならあぬという状況そのものが、若干の幼稚さを医者のいすに強制しているのである。
医者にとって気の毒なことは、いすが少しも安楽ではないことである。安楽というのはいすの大切な目的の一つであろうに、診療のためのいすは安楽ではない。安楽いすや揺りいすに座って、ずばり、診断を下すことは難しかろう。というわけで、正姿勢で患者と対面する。対面しつづけなければならない、ここのところが問題だ。
患者は確かに哀れな腰掛けに腰を下ろしている。が、何分かの辛抱である。医者の方は、肘付きいすに何時間も縛り付けられていなければならない。何時間も同じ姿勢を取りつづけること。これが体に良くないことは自明である。自明のことを、からだの専門家である医者もやらなければならない。気の毒だと思う。私は気の毒だと思うけれど、世間には無情な人もたくさんいて、医者の平均寿命の長くないのをからかう人もいるという。いけないことである。
一つには、権威である。
もう一つは、安楽である。
さらに、仕事ということがある。
この三つの目的と、いすはかかわっている。三つのことを、同時に果たすことはきわめて難しい。医者のいすが示すとおりである。
何も、一つのいすですべてを果たすことはない。歴史上、さまざまの文化の中で、いろんないすが現れては消えていった、今ふと、身の周りを見まわすと、いろんないすが声をあげて自己主張しているのに気づく。
36. 文中の( ア )に入れるものはどれか。
[A]もしくは [B]そのうえ [C]いっぽう [D]ところで
37. 文中の「医者の役割に対する社会的期待」とは、どのようなものか。
[A]権威のある、呪術的な一面を多少残す存在であるべきだ。
[B]権威のある、患者にとっては頼もしい存在であるべきだ。
[C]権威のある、患者に哀れな一面を示さない存在であるべきだ。
[D]権威のある、率直に自分の無力感を訴える存在であるべきだ。
38. 文中に「若干の幼稚さを······強制している」とあるが、なぜそのようになったのか。
[A]医者は無力な患者に面白さを感じてもらわなければならないから
[B]医者にビジネスに携わるための便利さを提供せねばならないから
[C]ビジネスをせねばならない医者にすこし安楽を感じてほしいから
[D]気の毒な医者に強制的にでも子供っぽい性格を持ってほしいから
39. 文中に「気の毒だと思う」とあるが、それはなぜか。
[A]医者は無力で哀れな患者に対して、堂々として診断を下せない場合もあるから
[B]医者は権威を象徴する肘付きいすが好きだが、それは却って健康を害したから
[C]医者は体の専門家ではあるが、自分の病気を治療できる人があまりいないから
[D]医者は健康に良くないとわかっても、同じ姿勢で座りつづけざるを得ないから
40. この文章の内容に合っているものはどれか。
[A]医者は診療の時、小さな腰掛けに座っている患者の気持ちを考えるべきだ。
[B]医者の座っているいすに権威、安楽と仕事の機能を同時に持たせるべきだ。
[C]医者は安楽でないいすに座っている時、堂々と診断を下すことはできない。
[D]医者の診療用の肘付きのいすは、安楽という大切な役割を果たしていない。
B.次の文章の下線のついた部分を中国語に訳しなさい。(3点X5=15点)
それぞれの学問にそれぞれ固有の対象領域があります。法律を扱う学問が法学であり、経済現象を対象とするのが経済学です。41. もちろん、その領域をさらに細分化し、専門化していくこともできます。きわめて簡単に言ってしまえば、学問とは、一定の対象に関する普遍的な記述を与えることだと言ってもいいでしょう。42.普遍的な記述が与えられることによって、われわれはその対象を操作し、支配することができるわけで、そうした実践性だけが学問の動機のすべてではありませんが、しかしそれを通じて学問は社会へと開かれているわけです。
ここで大事なキー・ワードは「普遍性」ということです。つまり、43.学問がある対象の記述を目指すにしても、その記述は、けっして記述する人の主観に左右されるものではなく、原理的には「誰にとってもそうである」ような仕方で記述されているのでなければなりません。44.「わたしはこう思う」というだけでは、まったく不充分なのであって、「わたしにとってそうであるだけでなく、あなたにとっても、誰にとってもそうであるとわたしは思う」のでなければならない。しかもなぜそのように言うことができるのかを、論理的に
ということは、原理的には誰にも分かるような仕方で説明し、論証することができるのでなければなりません。
そのことを、専門的な言い方では「反証可能性」と言います。すなわち、どのような知の言説も、同じ知の共同体に属する他の研究者が、同じ手続を踏んでその記述や主張を、再検討し、場合によっては、反論し、反駁し、更新するという可能性に対して開かれていなければならないということです。
45.このことは、理科系でも文化系でも同じことですが、大学で学ぶべきもっとも重要なことは、まさに自分の思考に反証可能な表現を与えること、そうしてそれを普遍性のほうへと開いていくことなのです。それは、自我の立場に立って考えるのではなく、普遍性の立場に立って考えるということです。しかし、それは、言うは易く、行うは難しです。どこかに端的に普遍的な立場などというものが存在しているわけではないからです。普遍性は、あらかじめ存在するものではなく、それに到達し、それを獲得することをわれわれが目指すべき地平のようなものです。その普遍性の方に向かって自分の認識や表現を開くこと
それが、大学という場に課せられた使命であり、約束なのです。
III.作文(25点)
46.次の指示にしたがって、450字~500字の作文を書きなさい。
もし買えるとしたら、あなたは次のどちらを選ぶか。
A:勤め先に遠いが、広くて立派な家
B:勤め先に近いが、狭くて古い家
AとBのどちらかを一つ選んで、その理由を作文に書きなさい。
注意:①自分でテーマをつけること
②「だ・である」体で書くこと
③漢字を使うべきところは漢字を使うこと
